コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2010 03 27
先の玄関に続いて、こちらはファサード、ルネサンス時代のナッタ邸。
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ここのところすっかりカメラにハマッテいる。これで二週間ほど、シグマのDP1を使った。デジカメに関して、写真に関してとんだ勘違いをしていたことに気づかされた。もともと、カメラ、写真というのは、現実にあるものを写す、絵画と違って、物理的に現実を二次元のイメージに忠実に置き換える道具、という固定観念があった。ある物を見て、自分の気に入ったところを切り取って、写真にする。その切り取る道具がカメラというのは、異論がないはずだ。が、このDP1を使って、RAWファイルという、生画像ファイルでカメラから取り出し、それをPCの上で現像処理するという工程を自分でやってみて、どれほど現像処理過程で、写真が恣意的に作られるかということを実感した。カメラから取り出すRAWファイルは、物理的な信号でしかないが、それをJPEGの現実ファイルに現像する際には、ただひたすら自分の持っている、心の中にあるその対象のイメージを頼りに、探っていくしかない。おそらく写真で一番面白い、ありきたりの言い方をすれば自分を表現するのは、この過程だ。
普通、デジカメで写真を撮る時は、何も意識せずに、それが自然のことであるかのように、この過程をカメラに委ねてしまっている。オートマチックにセットすれば、シャッタースピードも、絞りも、感度も何も操作せずに、シャッターを切ってくれて、カメラの中にセットされた現像エンジンと呼ばれる電子回路が、とてつもなく大量の画像データをこれまた、とてつもなく複雑なアルゴリズムに基づいた演算を行い、一枚の完成した、JPEGというファイル形式の写真を作り出してくれる、という仕組みになっている。
太陽の光が燦燦と輝く風景の写真は、まあどんなカメラでも、綺麗にとれるが、天気が曇っていたり、光の量が足りない夕方などは、その景色がどんなに魅力的であっても、写真に撮ってみると、いまひとつ冴えない写真しか写すことができなかった。写真というのは、光が十二分にあるところでしか、所詮無理なものだと思っていた。ところが、シグマの広告をしたいわけではないが、このDP1をRAWファイルで撮影してみて、全くどんな光でも、自分のイメージを、それにかなり近いものを再現できることを知った。霧、雲といった光の拡散した情景は、どこか間の抜けた写真にしかならなかったのが、自分で彩度、コントラスト、フィルライトなどを調整することで、その時見た、場をほとんど再現することができる。記録の道具としてよりも、絵筆に近い道具として写真がありえることを、このカメラを使ってみて初めて実感した。
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by kimiyasu-k | 2010-03-27 21:48 | Comments(0)