コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2010 0606
 塔に住みたいと思ったことがあった。それは、塔にすんでいる夢を見てからのことだった。
 夢に見た塔は、何階などと階数を数えられないような高い塔で、窓の前を時々くもが通って行った。あまり高いので、鳥などはそこまでは飛んでこられなかった。そんなところまで、どうして登ってきたのか、それは夢の中では経験しないことだった。
 私が住みたいと思った塔は、そんなに高くては困るので、せいぜい三、四階。そして石の螺旋階段を、こつんこつんと音を響かせて登っていく。それが嬉しい。
 夢から思いついたそんな贅沢な望みがかなえられるわけが無いので、塔の中の構造やそこでの生活の仕方を、本気になっては考えなかったが、丘の上とか、海辺の断崖の上などにその塔があるといいと思った。
 塔に住みたいと言う願いには、様々な欲求がからんでいたと思う。隠れようとする気持ちと、人目を牽くようなことをしてみたいと言う逆の気持ちが一緒になっていた。そしてなんとなくその矛盾を、童話風の雰囲気で包んで置けたら、さぞかしいいだろうと思った。
 だが塔は、そこに住むところではない。天に向かって、ひとつの願いを高くかかげ、それを崩さないように、頑丈に築く。そして塔は、そこに登って、地上の全てを小さく見下ろす時よりも、ある距離に立って見上げるときに、その美しさで心を揺り動かす。
 幻の塔には人は住めない。住んではならない。それを穏やかな夕映えの中で眺めていると、おそらく天上のものである鐘の音や、素朴で力のこもった音楽が聞こえてくる。
 それから静かに憧れが蘇る。
(季節の谷間に拾い集めた74の断章  串田孫一 じゃこめてい出版 1976年)


外国に暮らしていると、暮らそうとすると、どうしても手元に置いておきたい本がある。自分にとっては、串田孫一の本だった。昔読み漁った串田孫一の数多くの山の本、随筆、エッセイが今手元に10冊ほどはあるだろうか。時々持ち歩き、列車を待つ時間寝入る前に、ほんの僅かの時間の隙間に読む。何度読んでも、飽きることのない、これほど味のある日本語を書ける人は他にいない。丹精に選ばれた言葉と、文章の持つリズム、思いがけない形容句のあとに現れる主語。そして、日常の中で、ともすれば見逃してしまう心の揺らぎの的確な表現。ほとんどの本を対角線に読む自分が、丹念に一字づつ追って、時には前にもどり、繰り返し読みたくなる、そんな作家が串田孫一だ。なぜ、ここで串田孫一かといえば、昔どこかで、おそらくアルプという文芸雑誌に彼がセガンティーニという当時全く名前の聞いた事のないアルプスの画家について書いていたからだ。
インターネットも無い時代、彼の書くセガンティーニという画家の絵を見ることはできなかった。何故か、明るいアルプスの谷間のイメージがセガンティーニという音と伴に沸いてくる。
そのセガンティーニが今住んでいる家のすぐ裏の村に滞在していたというのは、単なる奇遇ではありえない。
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by kimiyasu-k | 2010-06-07 06:19 | Comments(4)
Commented by 元・山おやじ at 2010-07-10 23:06 x
異国で読む串田孫一。私も味わってみたいものです。
串田さんの文章を「さらり」とではなく、しっかりと読んでいらっしゃることが伝わって来ます。私も串田さんは大好きで、「これほど味のある日本語を書ける人は他にいない」とか「思いがけない形容句」という評言に嬉しくなりました。串田さんの文章は句点の打ち方の素晴しい御手本でもあると存じます。
Commented by kimiyasu-k at 2010-07-13 00:10
こんな表現は串田さんに怒られてしまいますが、噛めば噛むほど味のでる「スルメ」みたいです。串田さんのような文章を書こうと心がけても、それは山に例えれば「K2」で、とても登頂することはできません。
Commented by DON VIAJERO at 2011-07-17 08:42 x
おはようございます!
遠いイタリアの地からのご賛同、
ありがとうございました。
結構、山をやっていた者たちは
読んでいるのではないでしょうか・・・。
Commented by kimiyasu-k at 2011-07-19 01:34
山をやっていた昔を懐かしむ、ちょっと寂しいですが今こうして読み返しても、新鮮な気持ちで読めるのは、きっと串田さんの文章が時間が経っても風化しない本物なのかもしれません。