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コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2011 03 28 COMO
Buon giorno sig.kato come sta?
Mi dispiace molto per quel mostroso evento che e successo in giapponse. Non ci sono le parole per consolare o spiegare…..se vuole parlare con me, mi chiami. alessia

地震から数日して、アレッシアから携帯にメッセージが届いた。
「こんにちわ、KATOさん。元気ですか。
日本で起こった怪物のような出来事は、本当に残念です。
慰めの言葉も思いつきません。もし、何か話して気が静まるなら私に電話してください。アレッシア」

アレッシアは、ウクライナ人。ウクライナではソビエト崩壊ととともに、庶民にとっては生活するこがとても苦しくなってしまった。彼女は、子供を国に残して、イタリアに一時的な移民、出稼ぎにやってきた。彼女がチェルノブイルの近くに生まれ育ったかどうかは知らないが、1986年チェルノブイルが爆発し放射能がばら撒かれた時、アレッシアはおそらく小さな子供だったろう。チェルノブイルは日本からは遠いこともあって、悲惨な原発の写真や奇形で生まれた子供たちの写真をみても、どこか現実味のない、まるで映画のワンシーンを見ているようだった。こんな馬鹿なことは技術大国の日本で起こるはずがない、という考えてみればあまりに楽観的な思い込みがあった。そして一皮むいてみれば何ということはない、津波により14台の発電機が一台も動かないという、机上の計算では何十万分の一でしか起こりえないことが起きてしまっただけなのだ。もし、技術的に非常に難しい部分が地震によって壊れたのなら、これは技術を進歩させることで解決するのだが、発電機が回らないというのは、言ってみれば最も単純なトラブルで、そのトラブルが起きることが原発で解決できない問題なのだろう。だから、原発のもっている本質的な問題は、高度な技術的な問題でも独占企業、官僚、政治家という日本特有の社会構造でもない。ただ単に、何らかの理由で事故が起きてしまったときには、とてつもない、アレッシアの言う「怪物のような出来事」になってしまうということだ。どんなに安全を期して作っても技術や科学が所詮、人間の作ったものである以上、事故の確率を0とすることはできないのだから「事故がおこったとき」は有り得るのであって、チェルノブイルから25年、世界のどこかで25年に一度程度の確率で「怪物」が目を覚ます。
大人はもちろんだが、この地域に住んでいた子供たち、一体彼らたちの心にこの悪夢がどんな風に刻まれるかと思うと、こころが苦しくなる。
by kimiyasu-k | 2011-03-29 01:49