コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2011 06 01
1,2週間前、イタリアでラクイラの地震に関して、予想できなかったことに対して確か5人の地震科学者が起訴されたという記事を、日本の新聞でもよんだ。
今回の福島原発の事故を巡っては、当然電力会社、政府に責任があり現在補償を巡って様々な方法論が検討されていることはニュースで知らされている。
原発事故により、自分の住んでいる家から着の身着のままで避難し、不自由な生活をしている方々は「被害者」として、お金では償われないような被害を、「個人」「個人」が被っている。
それに対して加害者は、「会社」「政府」「委員会」という組織であり、人格をもった個人の姿はない。被災者の方に頭を下げたり、励ます政治家は確かに存在するが、一歩、会社、政府から外れれば彼らに個人的な責任は全くなく、おそらく道徳的にも一旦、組織から外れれば感じることもないだろう。役職を退くという形で一見責任を取るようだが、よく考えてみれば、退くことによって責任から開放される。加害者であることから開放される。一方、被害者は決して、解放されることはない。ある日突然、自分の住む家を、土地を見捨てて、異郷で暮らさざるをえなくなったこの人たちは一生、被害者でありつづけなければならない。このような自明の「不条理」を前に一体何ができるのだろうか。ここには「個人」という弱者と「企業・政府」という強者の関係が、被害者と加害者という関係に見事に反映されている。危害を加えれば、危害を加えた者は刑事上の罰を受けなければいけないという、法治国家の基本がここでは遂行されない。
イタリアの地震科学者、研究機関で地震を予知すべき立場にいた「個人」が起訴されたことは、こんな日本と随分対照的なことのように思える。原発問題は差別問題と語っていたのは、誰だったか。
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by kimiyasu-k | 2011-06-02 02:10 | Comments(2)
Commented by datian at 2011-07-03 22:39
 はじめまして。トラックバックありがとうございます。
イタリアとの対比から日本の企業、政府、などの問題点がとてもよく分かりました。取り急ぎコメントいたしました。今後ともよろしくお願いいたします。
Commented by kimiyasu-k at 2011-07-05 17:06
コメントありがとうございます。原発問題は、技術的な問題であるより社会問題であるように思います。そういう意味で、イタリアから見ると日本社会の特異性がより一層明快に見えてきます。これからもよろしくお願いします。