コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2012 03 11 三月十一日サンミケーレ 
今日は3月11日。朝からミラノの南20kmほにあるパヴィアという街を訪れる。ロマネスクのサンミケーレ教会の薄暗い地下クリプトに降りていくと、一心に祈りを捧げる人影がある。
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実際のところ2011年3月11日から12日にかけて、1号から3号炉では冷却水の補給が行われず、燃料棒の外皮のジルコニウムは高温になり水と反応して大量の水素を発生しながら、溶融が進んでいた。溶け落ちた燃料棒はおそらく圧力容器を溶かし格納容器底へと崩落しつつあった。圧力容器から漏れ出した水素は建屋上部に溜まり水素爆発が起こるのは時間の問題だった。溶け落ちた燃料棒が局所的に再臨界に達し、連鎖的な核分裂が起こり得ないとはその時点では誰も言うことはできなかった。それは言い換えれば、建屋が吹き飛ぶなどといった生半可な惨事ではなく、圧力容器の爆発という危険性を孕んでいたといことだ。圧力容器の爆発の意味するところは、半径2,300kmにわたる地域、東京も含む広大な地域が人が居ることができないほどの放射能に汚染されるということを意味している。そしてひとつの原子炉の爆発は、残る5機の原子炉、大量に蓄積されている使用済み核燃料も見放すことを意味している。これは悲観主義者の夢物語ではなく一年前の日本が置かれていた状況だった。

震災から一年経って様々なことが白日の下にさらされた。電力会社、官僚、政治家、産業界、マスメディアの独占的で排他的な電力を巡る巨大な利権システムを、学問の府である大学をも巻き込んで形成しているということ。一見、テクノロジーは不可能を克服したかのような印象を与えながら実際のところ原発の技術はほとんど半世紀前のローテクノロジーに支えられているということ。日本のジャーナリズムが、その本来の意味「民主主義の番人」という役割を全く果たしておらず、国や電力会社のプロパガンダの道具としてしか機能していないこと。

2000年ごろを堺に、世界の先進諸国の進む方向が工業に支えられた20世紀型の消費型発展成長時代が終わり新しい世界観が求められているのは誰にも否定できない事実だ。その端的な表れはエコロジーという概念が様々な側面で中心的なクリテリア、価値判断の基準となっている。20世紀的な豊かさの引き換えに環境破壊だけでなく地域社会の崩壊など人の価値観そのものに対する問いかけが、数少ないながらも知識人の間から上がっている。20世紀型の原発が事故により放射能汚染を引き起こし、地域社会を崩壊させたことはその象徴的な結果と見て取ることができる。

原子力発電は基本的に前世紀の価値観に基づく、さまざまな形での「搾取・略奪」によるものであることはここまでくれば明白だ。過疎地からの搾取、自然からの搾取、弱者からの搾取、国民からの搾取、そして使用済み燃料を巡る未来の世代からの搾取。事故が起きてからすでに一年以上たつというのに土地を奪われ「他者」として生活している人々は10万人に及ぶが国民全体からすれば僅かに0.1%のマイナリティである以上、多数を正義とする民主主義にとっては取るに足らない数だというのだろうか。

原発問題は、結局水掛け論に終わる技術の問題でも、発展成長妄想に取り付かれた経済の問題でもなく、全く新しい時代の倫理問題だということを語る知識人が居ないことに、論議がされないことに憤りを感ぜざるを得ない。そして刻一刻と国中の原発の再稼動に向けて着々と権力者たち、権力システム、経済システムが人々を押しのけて動いていることには、恐ろしさを覚える。

こんな現実を前になかなか盛り上がらない日本の市民運動。イタリアで原発の国民投票が行われ投票者の95パーセント以上の人々がNOと言ったのは、神と孤独に対峙し各人が自分で責任をもち判断せざるを得ないキリスト教の長い伝統によるところが大きいのだろうか。
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by kimiyasu-k | 2012-03-13 07:03 | Comments(2)
Commented at 2012-03-31 23:20
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by kimiyasu-k at 2012-04-05 00:16
コメントありがとうございます。はじめまして。
cahier blancさんの魅力あふれる写真は以前からしばしば拝見していました。
長く外国に暮らし、最近は日本への行き来も多く様々な局面で日本社会の特異性を痛感しますが、原発問題はその集大成かもしれません。
昨年3月12日、事情に詳しいものから知らせは、あの時点ではフクシマが核分裂により爆発する可能性が全くないとは言えない、というものでした。
一年もしてそのような「国家的な危機に直面していた」という事実が全く顧みられず再稼働などということが話題に上ることは「気違い沙汰」としか思えません。
残念ながら既得権のある政治家や知識人などの所謂社会の上に位置する人々、また風見鶏のマスコミからの思いきった変革が望めない以上、原発に関しては普通の多数の人々が声を大にするしかないようです。
cahier blancさんの奇麗な写真を楽しみにしています。今後ともよろしくお願いします。