コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2013 04 23  ものもうす
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(かつて)大学の工学部建築学科には建築の歴史を研究する教室があり,そこでは単なる建築の技術や意匠上の様式などの歴史だけでなく哲学や美学,社会学などと建築の繋がり,「建築の価値」について研究が行われていた。
一方,機械学科や電気学科などの学科では,全く歴史研究などは行われず,純粋に技術的な側面のみが探求されていた。よしんば技術と社会の繋がり,技術の価値に関する講義,議論などは全く行われていなかった。おそらく今でも同じだろう。
技術に携わるものが,技術の価値と限界を知らないでどうして,それを実践することができるのだろうか。例えば,大量の人を虐殺する兵器を開発しなければいけないという状況におかれたとき,今の技術者はどれだけ,そのような技術がどのような価値,意味をもつか判断が出来るのだろうか。平和を維持する為に兵器が必要,どうせ誰かがやらなければならない事,敵の脅威から自分を守るためには必要,というアリバイをつくることは可能かもしれない。兵器は極端な例ではあるけれど、実際、技術は様々なところでこのような「価値」の評価と表裏一体のところで進められている。

宗教が時にはあり得ない奇跡を起こしたり,論理的な矛盾があろうとも,また信者以外から白い目で見られようとも信者にとっては絶対的な「価値」である。カトリックの国,イタリアで暮らしているとその事を痛感させられる。基本的に仏教徒である日本人には理解不可能、ほとんど愚かとさえ映るカトリック信者の様々な儀式や行為,思考は,宗教が絶対的なある「価値」を持っているからだ。
これと同じようなことを現代人は宗教以外で行っているように思われる。現代社会にとって「技術」は絶対的な「価値」となっているのではないか。今の若い世代の中には何となく新しい傾向が感じられるが,とりわけ,高度成長と消費社会を享受した私達世代は,まるで「技術」を宗教のように信じ込んでいる。

オウム真理教のような妄信的な宗教が暴走し,サリン事件のようなとんでもない事件を引き起こすのと同じようなことを,今の「技術」はしていないのだろうか。「技術」という言葉は「科学」という言葉に置き換えても良いかもしれない。
よく議論の中で、ある主張が科学的であるかないかという話が持ち上がる。つまり科学的であることは正しく,科学的でないことは正しくないというほとんど「公理」と呼んでよいほどの前提で,議論がされる。例えば、放射能の影響が一体何ベクレルまで許容できるのか,被爆量と癌の発生率の間の関係は科学的に検証されているのか、単なる推論の域をでていないのではにのか。それによって、原発擁護派は反対派の主張が科学的ではなく、誤りであると主張したりする。また逆に反対派は,チェルノブイルの事例をとって科学的に,彼らの意見が正しいことを主張したりする。
注意したいのは,両者とも,おそらく誰独りとして,「科学的」であることと「正しい」ことがほとんど同義語のように用いられていることに疑問を持っていない事だ。
しかし、一歩引き下がって考えてみれば,その科学という物差し自体が、果たして「正しい」ものであるのか、果たして人にとってポジティブ側に常に働く物差しであるのかは誰も回答できないことは明白だ。
ここで言いたいのは個々の技術,例えば携帯電話だとかコンピューターとか自動車とか,そのような個々の技術,あるいは原子物理学や生物学といった科学が人の役に立つか立たないかという議論ではなく,「科学」という概念そのものの限界について話そうとしている。
近代科学が生まれて300年が経つ。その科学の限界を見極めないところで社会的な決定が行われる場合、かつて,ある社会的な選択を,占い師が神の意思にそぐうものであるかどうか判断して決定されていたと同じほどに、科学的決定が「恣意的」であることに科学,技術信奉者は気が付いていない。
繰り返しになるけれど「科学的選択」がたとえ自明のごとく一見「正しい」社会的選択であるかのように全ての人間が同意していたとしても,その自明性は全くの思い込みであり,そのような社会的な選択は極めて「恣意的」なものであり決して普遍的なものでは無いということだ。たとえ其れが今この時点で現代社会が行える最良の選択であったとしても。

天動説は科学により覆され地動説にと取って代わったように,かつて「世界観」を支配していた宗教は一部,近代科学によって置き換えられた。それと同じように科学は他の何物かによって「超えられる」ことを待っているような気がしてならない。
高度に進む情報技術,遺伝子工学,材料学など毎日のように塗り替えられていく「科学」に自分はついていけない,暴走する科学を判定することができない、という単純な議論ではない。また「科学」は今後,無限に発展し,未知の世界を解明していくことによって自らの限界を乗り越えていく,などと言った楽天主義科学者の言説は全く聞くに値しない。
単に科学者,技術者の道徳問題として捉えればと主張する人が居るかもしれない。科学,技術の中で「善と悪」の選別を行えば良いという考え方だ。遺伝子操作などにおいてはこの考え方で善と悪との境界線をどこに設定するかという作業を社会的なコンセンサスを踏まえた上で行われている。
このような考え方は,一見有効で現実的であるかのように思えるがそれはあくまで「科学」のこちら側での作業であって,その向こう側にある意味を切り捨ててしまう。
なぜなら人はある限られた時間,空間の中でしか生きられないのであり,まぎれもない「現実」を生きているからだ。
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by kimiyasu-k | 2013-04-23 14:49 | Comments(3)
Commented by hiroki yoshihar at 2013-04-24 12:42 x
日本では受けない考えかたですが、このように考えたらどうでしょうか?「科学は価値判断はしない」。 科学は事実や推論の正しさを確かめ、価値判断ための資料を提供するが、価値判断そのものはしない。となれば、科学的選択やという言葉は意味を成さないし、科学は価値判断の資料を提供するけれど物差しには使えません。実はこれは本当の科学の意義を言い当てていて、科学はあくまでも「知」を広げるだけ。役に立つかどうかは分からない。技術として応用される科学の領域は全科学の領域に比べれば非常に小さいものです。有用性を当てにして科学を研究している人はあまりいないと思います。科学はたとえば受精から出産までのメカニズムを明らかにしようとしますが、どこからが生命でどこからが物体で堕胎しても「良い」のかと言うような判断にはいっさい無力ですよね。ブラックホールの研究が何の役に立つかは誰にも分からない。(逆に自然を理解しようとする態度のなかで、その価値基準が推論の正しさや、観察を曇らせてはならない、むしろ良し悪しの価値判断からは切り離されなくてはならない。これがガリレオが正しい知を得た背景です。「知の正誤の判断」は科学の専売特許です。)
Commented by hiroki yoshihar at 2013-04-24 12:50 x
一方、技術は反対にそれが人間に役立てるためにはどうすればいいかが主題です。価値の判断なしには作業が始まりません。(科学と技術を峻別することはとても大事なことだとおもいます。色々な混乱はこの混同からはじまるのではないでしょうか?) 有用性の判断はまさに価値基準にかかわることで、それが社会に結びつくなら, 当の技術者だけの問題ではなくて、社会全体がその価値判断に関与しなければならないとおもいます。つまり、技術がどれだけ発展しても、それをコントロールし、価値を吟味するのはすべての人の義務で、政治家や専門家にお願いして任せられると言うものでは決してない。問題はそうゆう技術リテラシーと知的関与をどうやって専門家以外の人の間に構築するかだとおもいます。
Commented by kimiyasu-k at 2013-04-25 13:48
どうもコメントありがとうございます。
ブログで書くような話題じゃないですね。長くなりそうなのでまたメールします。