コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2014 02 16 コモ湖を背景にした孤独なアヒル
先に帰国したとき,ちょうど東京都写真美術館で「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ」という展覧会をやっていて足を運んだ.恥ずかしながら植田正治とジャックラルティーグが誰かも知らない程に,写真に「興味が無かった」のだけれど,両者の写真とも久々に居たたまれなくなるほどにすばらしかった.そんなのは当たり前で、植田正治は鳥取に美術館すら構えているし,ラルティーグのあの車のゆがんだ写真は、おそらくキャパの「崩れ落ちる兵士」とならんで世界で最も有名な写真なのだから、ということを後から調べて分かった.植田正治にとって鳥取砂丘が写真を撮る上で必要不可欠な背景であったように,またランティーグにとってはフランスブルジョア家庭という背景が必要不可欠であったことが印象的だった.つまり植田正治はもし東京に住んでいたらあのような写真は撮れなかったし,ラルティーグはどこか地方に住んでいたらあのような写真家にはならなかったということだ.そんなことは当たり前と言えば当たり前なのだけれど結局,写真は自分の生きる日常の生活の中にしかないということなのか.幸運にも「コモ湖」という背景が、24時間目の前に広がっている.にもかかわらず、撮れるのはこの程度の写真なのだからと、がっかりするしか無い.
d0104210_21307.jpg
SIGMA DP-1
tumblr
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by kimiyasu-k | 2014-02-17 02:02 | Comments(2)
Commented by 高橋洋一郎 at 2014-02-17 20:20 x
いや、これはなかなかだよ。
左1/5を削ったらどうなるかという関心はあるけれど。いや、違うか。
でも「デザイン」という感覚をありありと感じることもたしか。

人って撮れないものだなあ。甥や妹でさえ困難だ。母はSIGMAに気付く前に亡くなってしまった。
また見るのもおおむね辛い。いやらし画像を保存(30枚とない審美的なもの)するときも二枚を除いて鼻から上を切り落としてる。
カラーであることが致命的なんだろうか?そこまで忌人症なんだろうか。
Commented by kimiyasu-k at 2014-02-18 07:05
ほめて?頂きありがとうございます.
最近,DP-roadさんのブログを拝見していて、もう一度,シグマ(わたしの第二期写真原点、一期は35年前のコダクローム)に立ち戻って撮った結果がこの写真です.結構,好きだし「可能性」みたいのはあるのでエプソンやめて、また原点のシグマに戻るのが良いのでしょうが,どうもシグマに,FOVEONセンサーに「操られている感」がしてクヤシいのです.しばらくは、エプソンシグマの二本立てで行きます.
人は,ほとんど、不可能ですね.偶然,じゃないと撮れない.何故かというと,その人と,ググググと近づかなければならないからだと思います,心が.どうも内気で人見知りの強いわたしには,アヒルさんくらいが限界のようです.