コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2014 11 11 日曜夕方 公園での散歩
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EPSON R-D1 x NOKTON40mmF1.4
もう可成り昔に出版された本のようだけれども「村上春樹,河合隼雄に会いにいく」という文庫本を読んでいると,とても興味深い2人の会話があった。イラク戦争時の日本の対応の仕方,つまり後方支援という参加のしかたに,河合隼雄は,「日本はずるいをしてきたし,もっとずるくなれば良い」というのに対して,村上春樹は「自衛隊という軍隊があるのに,軍隊的な行動をしないのは,良く無い,そんなのは世界の中では認められない」という議論だ。
わずか2ページほどで終わってしまう話しだけれども,本当は河合さんの言う「ずるい」の意味を村上さんは全く理解していないことに,ご自身が気付いていない。
河合さんは日本へユング心理学をもちこんだ言ってみれば「心」の大御所だから,「ずるい」という言葉にまつわる「道徳」という価値が普遍的な価値ではなく あくまでその時代のある文化,体制国家が作り出しているだけにすぎないことをあんに含めて使っているのに,村上さんは 完全に現代社会の国家体制という価値観にもとづく「道徳」の中での議論に留まっている。
イスラム国に「凶悪非道の世界の敵」として,正義の味方の自由と民主主義を信条とする「近代国家」の道徳で,世界を粛正するのは一見絶対的な正義と映る。でもそれは金正恩が張成沢にした粛正と本質的なところでは全く同じだ。なぜならそこには自身の信条とする民主主義的手続きが全く取られておらず,イラク戦争やガザ攻撃で起きたような一般市民の殺戮を、容認した上で行われている。こんなことは当たり前だけれども,ある信条,理念が自己の限界を超える別の理念から攻撃を受けた際には,成すすべを持たない。例えそれば不本意であっても,唯一「暴力」という形で答えるしかない。
だからこそ,日本は「ずるく」あれと河合さんは言う。ここであえて「ずるさ」と「暴力」を天秤にかけて,それがどちらが傾くかを試してみるまでのことはないと思う。憲法にあるように日本は世界中に出かけていって、戦争でこの世を平和な世界にしようと思っているわけではないのだから。
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by kimiyasu-k | 2014-11-10 03:03 | Comments(0)