コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2015 01 06 1000年に渡る芸術と霊性- 洗礼堂建築に関する研究
d0104210_2253917.jpg

SIGMA SD-15 17-50mmf2.8
新国立競技場の建て替えをめぐる話し
国立競技場の立て替えを巡っては,ザハの人目を引く「斬新なデザイン」、6000億円という予算の二倍におよぶ建設費,神宮森の保全,拡張に伴い取り壊される公共住宅からの強制退去など,様々な社会的な問題が,賛否両論を交えて議論されている。設計をするものにとっては,とりわけ,この競技場決定の設計競技の審査委員長を務めたボクサー出身のガッツ安藤忠雄と,若い頃からすでに大人の建築を作り続けた成熟のエリート槇文彦の反対宣言による果たし状,建築設計界の両横綱による一番と,なんとも「面白い」。
様々な立場の人が,様々な意見を述べているけど,その議論が余りに日本的な事に思わず笑ってしまう。つまり建築の本質的な属性に関して誰も語ろうとしない。日本人の知識人による議論はいつもこうだ。一番大事な事,一番本質的な事,一番根源的な事を見ないふりして,その廻りをぐるぐる回る,収斂しない議論を続けて,結局は成り行き,既成権益の存続という結論に達する。

つまり新国立競技場の問題の本質が,この計画案がまぎれもない現代の日本にとっては「悪趣味」であるということだ。デザインに関して専門的なプロの目を持つ人ならば,一般の人には斬新に映るこの競技場のデザインがまぎれもなく悪趣味であり既にもう,かなり以前に旬を過ぎてしまった賞味期限切れのデザインであることは分かっているはずだ。
ザハハディッドは1980年代に,「香港ピーク」という設計競技で華々しくデビューを飾った。それは今までの建築では見た事のない,見事な流線型,流れるような,動的な,建築形態であった。それまでの建築が重力に縛られた静的なものであるという固定観念で捉えられていたものを打ち壊した。それはまさに「未来」を表現していた。なかなか実現の難しいこの「ネオ未来派」の建築はその後,世界中の様々なところで,現実の作品として実現された。それは1980年に生まれた建築の新しい理念であり,それはある場所で,ある時には既成の建築概念を覆す意味で確かに有効であった。
ファッションと違って建築は時間がかかるのは確かに事実だけれども,この新しい理念は,その誕生からすでに40年の年月が過ぎている。
日本は今,1980年に居るわけではない。バブル経済の崩壊,そして2011年3月11日フクシマの事故を引き起こした未曾有の大災害を経験した。この40年間の間,日本は一歩も進歩していないと言うのだろうか。それまでの「発展」妄想から目を覚まし,新しい価値観で立ち向かう時にあることは誰もが感じていることだ。言ってみればザハの計画案を日本が選択するという事は,1980年の時点で思い描いていた未来を思うことであり、それはある種の「懐古趣味」に過ぎない。
この40年の間に日本は,世界は「環境問題」に関して真正面から取り組まなければいけないという現実を突き付けられた。グロバリーゼーションの大きな波が、民主主義的な単純なバラ色の未来が幻想であったことをあらわにした。フクシマの事故により日本は10万人にも及ぶ人達を4年近く経ったにも関わらず,まだ仮設住宅という最悪の住環境に押し込めたままでいる。
そのような現実を前にして、1980年代の夢を復活させるかのようなザハの計画案、デザインは現代の日本には全く「悪趣味」としか言いようがない。ザハのデザインそのものを問題にしているのではなく、2015年の日本があのデザインを選択することが,あまりに「悪趣味」だと言うことだ。
1980年の香港ピークの後、沢山の新しいデザインコンセプトが生まれた。あのヘルツォーグ&ムーロンの北京の競技場でさえ、ザハのデザインに比べれば遥かに斬新で新しい時代を表現している。
おそらくこのまま、新国立競技場は建てられるのだろうが、もしそうだとしたら、それはヒットラーがアルベルトシュペーアに計画させたナチの建築となんら変わらない事になる。それは建築が、その時代の権力の所在を投影するものに他ならない事を証明することになる。今となっては第三帝国を夢見たナチの建築が,その余りの「巨大さ」のためにほとんど「愚かしく」思えるように,あの新国際競技場のデザインは,その未来主義の夢をみるようで愚かしく,国際的な基準からみれば赤面するほど「恥ずかしい。」
更にもうひとつ最後に。これまで書いて来た事全てに目をつむるとしよう。それでも許されないのは,費用がかかり過ぎるからと言って,ザハの計画案にどこかの誰か(例によって入札前にすでに建築請け負いが決まっている建設会社か大手設計事務所だろうが)が手を入れて,修正案を作成,それに基づいて競技場が建設されるという。よく考えてもらいたい。「ピカソの描いた人物像の手がまがっているので,そこを真っすぐな手に直す」と同じような事を平気な顔でやっていることだ。これはもう,日本では人権問題が時に平気で無視されるのと同じように,建築という手段の「芸術表現」のもつ権利を,平気で無視する行為であり,世界の常識から見たら余りに恥ずかしい行いだ。その事に誰一人として気付いていない事が全く理解できない。
[PR]
by kimiyasu-k | 2015-01-08 00:39 | Comments(3)
Commented by masaaki at 2015-01-09 12:07 x
明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いします。
新国立競技場について書かれた文章の最後の部分、他人のデザインに手を入れる事の愚かさについては、私も同感です。
磯崎新さんは同様の批判を公表されているようです。
Commented by kimiyasu-k at 2015-01-10 01:14
あけましておめでとうございます。
建築だけでなくいろんな曲面で遭遇しますが、 こういう事を平気でする時、ああ、日本は「オクレテ」いるなと感じてしまいます。他の人へのリスペクト、の問題だと思います。セクハラ野次もそうですが、あらゆるところで、人の尊厳を全く尊重しない、それが公の場でされてしまうことに腹立たしさを覚えます、ね。
栗原さんのブログ、外国からコメントできないのですが、「阿部勤さんの自宅」とても興味深く拝見しました。あの時代の実験住宅は、骨太で迫力があったように思えます。機会があれば拝見してみたいものです。
Commented by masaaki at 2015-01-13 17:47 x
コメント有り難うございます。
またこちらのウェブログも見て頂いて有り難うございます。
外国からはコメント出来ないのですね。
阿部勤さんの自宅は書籍や雑誌でも色々紹介されているようです。