コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2015 01 12 むこう側
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パリで起きた過激派イスラム教徒のテロ事件は,ついに起きたかという思いがする。冷戦終結以降,911で明確になった世界の構図,自由主義圏対イスラム圏,もちろん原理主義者と穏健的イスラム教徒は全く異なる理念を持つ人達だけれども,そのふたつの極が存在する事は誰もが認める事だし,それがテロという形で表出したことになる。
現実問題として,パリからわずか600キロしか離れておらず,国境も無くなったヨーロッパに住んでいれば,また街角の至る所でイスラム教徒を見る事があるので,このようなテロ行為がイタリアにも波及してくるのではという不安が生まれる。テロというような蛮行は,もうこれで終わりにしてもらいたいけれども,原理主義者を批判すれども彼らとの対話の場が存在しない以上(もちろんそのような事が可能かという問題もあるのだけれども),おそらくまたどこかで起きるだろうと悲観的な考えをもってしまう。
今回標的になったのは,風刺画新聞の編集社だったために一部のマスコミは,このテロを「表現の自由」対「イスラム原理主義」という書き方をしているが彼らにとって新聞社は単にシンボリックな意味で、もっとも身近にあったために標的にしただけであり,道徳,経済,政治,文化,すべてを含む「自由主義」対「イスラム原理主義」という大きな構図を忘れてしまうと,問題は単純に野蛮で非人道の原理主義者征伐という勧善懲悪に終わってしまい、泥沼の戦いになっていくことは目に見えている。こんな難しい問題、言って見れば世界の構造そのものに関して意見がまとめられるほどの知識も持ち合わせいないし特別な知恵があるわけでも無いので、何とも言えない。ともかく、どんな理由があろうとも、テロという行為だけは許されない事だけを確認するのにとどまるしかない。
この事件を切っ掛けに、どうも「表現の自由」というものの正体が何であるのか、考えさせられてしまった。先にアメリカであったソニーの映画とサイバー攻撃、日本のヘイトスピーチ問題、ろくでなしこさん逮捕、東京都議会のセクハラ野次、どれもこれも,「表現の自由」を巡って起き上がった問題だ。
もともと日本では「表現の自由」とは,どんな経緯で生まれた概念なのか考えてみれば,今となっては当たり前の権利のように思えるこの表現の自由は,戦後憲法で保証された権利であることに気が付く。日本帝国憲法のもとでは,反体制,つまり社会,共産主義を標榜する人々,そのような考え方を持つ人々はひどく弾圧されていた。いわゆる特高による取り締まりで多くの人々が獄中に送り込まれた。そして独走した軍が第二次世界大戦の泥沼の中に,日本を引きずり込んで行った。(もちろん事情はこんなにも単純ではないけれども)その反省として,日本(アメリカ)は,国民主権の民主主義憲法により表現,言論の自由を全ての人々に保証した。だから言論の自由は,個人という弱者が,為政者という権力に対して,つまり弱者が,強者に異議申し立てをする権利としての性格を根源的に持っている。このように弱者が強者に異議申し立てを自由に行える表現の自由という権利は,もちろん日本だけの観念ではなく,民主主義と表裏一体のもので世界中で普遍的な個人の権利とされている。
そのような権利にあてはめてみればヘイトスピーチが何であるのか明快になる。ヘイトスピーチは日本国民が在日朝鮮人に対して行われるものだ。これは言ってみれば日本国民という強者が在日朝鮮人という少数派,弱者に対して行われるものだ。明らかに上記の表現の自由という権利の根源的な性格を欠いたものであることが分かる。このような強者から弱者に対して行われる行為は,表現ではなく単なるハラスメント,パワーハラスメントに過ぎない。だからメディアが言うようなその法的規制が表現の自由を奪う可能性があるなどと言った議論は全く的を外れている。
都議会でのセクハラ野次は言うまでもなく,古参の男性議員,おやじが若い女性議員に対して行うハラスメント,いじめ行為となんら変わらない。それが学校のクラス内で行われれば時にはいじめを受けた子が自殺へと追い込まれる行為であり,こんなものに表現の自由というレッテルをはり問題が片付いてしまったかのように容認される事は,恥である。こんな事を議会が率先して行っていれば学校でのいじめが無くならないのは当たり前だ。
北朝鮮を題材にした映画もまた事情はあまり変わらない。どんなに、北朝鮮が「世界の悪者」と定義しようとも経済的にもまた政治体制も孤立した、世界の中の弱者に過ぎない。それをアメリカ、日本という世界の強国が、笑い者として描くという事自体が、いじめであるに過ぎない。
今回のテロの標的になった、風刺画新聞に関しては時が時だけに言うのははばかれるけれども、やはり彼らのしている仕事の一部に関しては、フランスへの移民という弱者に対する、一種のハラスメントに違いない。彼らはイスラム教徒に限らず、キリスト教も同じように否定しており同じような風刺画を発表しているという反論があるかもしれない。キリスト教徒はそれに対して、寛容であるけれどもイスラム教徒は、テロで反応するという反論がある。しかし、フランスというキリスト教がひとつの「権威」として認められている国においてキリスト教をからかう事と、キリスト教国において、イスラム教徒という少数派、弱者をからかうということは全く違った意味を持っている。
民主主義という理念、自由という権利を一般市民が獲得したのはフランス革命からだとしたら、今フランスで、その理念がテロというリアクションを引き起こし多くの方の命が失われたことは、余りに逆説的だ。
フランス人の「理知主義」が宗教を完全に政治から切り離し,市民による「表現の自由」という理念を原理的に,つまり突き詰めて遂行するということが,フランス文化であることを認めるとしよう。しかしこれはヨーロッパ人全てに当てはまる訳ではなく,現実主義のイタリア人はフランス人特有の理知主義に対して決して良い思いは抱いていない。
100万人を越える人々がパリの街に集まる映像を見て思うのは、市民の正義に対するエネルギーの大きさではあるけれども、巨大な大衆という、一旦方向を間違えれば制御不可能でどこに進んでいくか分からないエネルギーの恐ろしさを見てしまうのは、自分だけでは無いと思う。
自分も含めて,西側の人間は「民主主義」「自由」「平等」などといった理念を絶対の価値として信じ続けて来た。しかし,インターネットや交通手段がこれだけ発達し,違った価値をもつ人達と物理的に共存しなければならない事実を突き付けられており,そのためにはこれらの20世紀に煌めいた金科玉条が必ずしも絶対的な価値では無い事を改めて感じさせる事件であった。
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by kimiyasu-k | 2015-01-14 06:14 | Comments(0)