コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2016 03 01 しずく
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EPSON R-D1 NOKTON40mmF1.4
写クリでしずくが見えます。

今回の東電幹部の起訴に関しては,誰も責任を問われる事がなく終わってしまうのかと思っていたフクシマの事故に,時効間際に「ようやく」という感を持った人も多いと思う。もちろん,責任の所在がどこにあったのかをある個人に特定して,(一応)法治国家である以上,法的に裁くということは必要なことだし,これすらしなければ,一体あのフクシマは何だったのか,荒ぶる神々の仕業だったのか,と中世,古代へと引き戻されてしまう。
でも,この強制起訴は,何らフクシマの本質的な問題を解決しないことを忘れるべきではないと思う。
もし,無罪判決が下れば,もちろんフクシマは,誰も責任を取れるような事故ではなく,言ってみれば想定外の「天災」であり,みんなであきらめるしかない,という事になる。そして,もちろん国は「みんなで」というけど,実際には福島の方々がその被害を全面的に被るという何とも酷い事をみなで同意する事になる。
仮に有罪判決が出たらどうだろう。この三人に重大な過失責任があったということになる,まるでフクシマの事故が,この三個人の重大な過失によって起きたかのように「判決」されるのだ。
でも,もう直き迎える5年間で解った事は,フクシマの事故が単なる企業や個人,また自然の現象に由来するものではなく,マスコミ,国民ひとりひとりを含む日本という国の構造的な問題であるということだ。さらに言えば,事故後のこの5年間の動きを一連のフクシマ問題として見れば,それはほとんど「国民性」問題と言ってしまえるかもしれない。
もちろん今回の強制起訴は,法治国家という観点からは重要な事だけれども,フクシマの事故の本質的な問題にはあまり関係の無い事であることに留意しておかないといけない。
この裁判は,魔女狩りをすることによって国が「免罪符」を手に入れるための手続きにしか過ぎないかもしれない。もしこの裁判によって更に「原発」が何であるかという議論が高まり民主主義の手続きを経て,国民が「選択」をする方向に動くのなら良いけれども,まるで独裁国家のように再稼働へと突き進んだこの5年間の政府の動きをみれば,その希望はほとんど皆無と言って良いだろう。
だから今回の強制起訴は,どのような判決が出ようが,フクシマ事故に「終止符」を打つ為に巧妙に仕組まれた罠に過ぎないと思ってしまうのは,余りにうがった見方,なのだろうか。



















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by kimiyasu-k | 2016-03-01 13:54 | Comments(2)
Commented by pipopapo-d at 2016-03-02 08:28
同感です。国民性とか民度とか、キーワードが浮かんできました。日本史のいつごろからかお上の国になり、自分の国、自分の地域などを守ろうと訴えないお上任せの性分なのかもしれませんね。私もそうですが。
Commented by kimiyasu-k at 2016-03-02 14:06
コメントありがとうござます。五年前の3月11日を境に,日本は変わって行く,と期待していたのですが,経ってみればむしろ期待とは反対方向に変わってしまいました。震災,フクシマ問題をそのままに,経済格差,軍事化,報道規制など外から見ているとその変化には目を疑ってしまいます。