コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2016 07 28 新導入の古種の大きなトマト
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EPSON R-D1x NOKTON40mmF1.4

本を買うのが好きだった、でも考えてみれば読むのは余り好きではなくて今でもなかなか頁は進まない。何となく、本を読めば「知的」な感じがするけれど、実際には本を読むにはかなり脳みそが汗をかかないといけないから、根気のない自分にはあまりむいていない。それでも考えてみれば、何冊か、数少ないけれども、自分の考え方に決定的に影響を与えた本、まるで新しい地平が開けたような本が何冊かはある。例えば大学の夏の自主ゼミで呼んだデイビットワトキンの「建築とモラルティ」は近代の建築を見る目に疑問を持っていた自分にとっては「目から鱗」というやつで、建築の「本質」がなんであるのかを的確に、明確に示してくれた。
あまり真面目な学生ではなく単位が簡単に取れるからと取った「社会学」で学んだエリックフロムの「自由からの逃走」もそんな本の一つだった。ヒットラーという人類史上例外的な狂気が生み出したと思っていたナチズムが当時の市民社会が欲していたものだったというフロムの慧眼は、ある不動の事実が視点を変えることによって、全く別の現象として現れてくるという、まるで手品を見ているかのような刺激を受けた。

昨日は、日本では身障者の施設で多数の方が命を奪われ、フランスでは教会で神父が殺害されたりと、ここのところ本当に世界中でせい惨な事件、が起きている。インターネットのおかげで世界中のニュースが瞬時に見る事ができるために世界中のこんな知らせが届くだけなのか、それとも本当に今という時代が、これまで起きなかったような非人間的な事件が起きているのか、それは定かではない。
今回の日本の事件が特に印象的だったのは、斬首のような宗教的な原理主義者による野蛮な殺戮とは大きな違いがあることだった。それは、被害に会われた方、命を奪われた方々が社会的な「弱者」であったことだ。ネットでオレンジの服を着せ、ナイフをかざして殺戮を行うのは確かに衝撃的で,一見,捕虜となった無力な「弱い」ジャーナリストを「強い」狂信的な原理主義者が命を奪うというものだけれども、世界地図の中で置かれている彼らの立場というのはもうどうしようも無い程の「弱者」であり、あのようなシーンは単なるプロパガンダのために作られた一つの芝居に過ぎない。世界の中では、原理主義者は、少なくとも西洋社会の中で生活するイスラム教徒たちは「弱者」の立場に置かれている。だからテロは基本的には体制側という強者に対する全く不条理な弱者からの攻撃だ。それに対して、今回の日本の事件は、一般に日本の社会で生活する強者が障害者という弱者を襲った。
両者とも狂気の殺戮という見方をすればどことなく共通的でそれは簡単に納得いく解釈だけれども、社会学的な観点からはそのエネルギーの力学が、全く別方向に働いていることに気づかされる。つまり世界中で起きているテロは、自由主義,民主主義,資本主義という世界を席巻する圧倒的な強者に対する,イスラム原理主義者という弱者が、自分の命をかけた何ともやりきれない,当然受け入れる事のできない攻撃であるのに対して,今回の日本の殺害事件は、障害者という疑問の余地のない弱者への攻撃であった。それはどこかナチのユダヤ人殺害,優位に立つと考える強者の「民族浄化」を想起させる。確か数ヶ月前にもどこかの老人医療施設で、看護士がバルコニーから老人を突き落とし殺害したという事件があったように記憶している。

先日,東京にいき人ごみの中で,ギョッとした事があった。急いで電車に乗ろうとした婦人が,わたしの持っていたバックに足を引っかけひどく転倒した。もちろん大丈夫かと心配になり、声をかけ起きるのを助けようとした。するとその婦人は,まるでその助けが迷惑であるかのように、そして回りにいた無数の人々も全く何事も無いかのように、電車に急いで乗って行った。こんな背筋に悪寒が走るような体験は,日本以外ではありえないと思う。転倒した弱者を誰も顧みず,また本人すらそれを認めたがらない。どんなに東京の生活が忙しいからといっても、3分立ち止まり,弱者を「助ける」という事ができなわけはない。他の国はしらないけれども、イタリアではこのような行為,助けないことは刑法によって罰せられる。
考えてみればこんな事は日常に溢れている。電車の中にベビーカーを持ち込めば回りの人は露骨に迷惑がる。スーパーでもたつく老人に,悪口を吐く。法律ができたとはいえ相変わらずのヘイトスピーチ。沖縄への基地の押しつけ。フクシマの被災者の進まない救済。現代になってもまだ存在する非差別民。

心の問題は、一見,極めて個人的な問題のように思える。他人のこころの中まで見る事は出来ないし,一体他の人が,何を考え何を感じているのかは誰にも分からないから。数多くの命を奪った犯人のこころの中も知ることはできないし、おそらく「狂気」というレッテルを張る事でしか納得のいかないものであろう。
イタリアで、ユダヤ人のユング派心理分析家とこんな話しをした事がある。心理分析は言ってみれば,分析家が被験者のこころの中に入り込むことであり、例えばもし日本人の心理分析を行おうと思えば個人的なレベルはある程度それができるかも知れないけれども,日本というコレクティブ,共同体のこころには一体どこまで入り込むことができるか分からないから、本当に心理分析が全く異なった文化の中で育った被験者にも有効なのか,可能なのか分からないという事だった。
こころが個人に秘めたものであるためにコレクティブ(共同体)の心という概念は、どうも分かりにくい。でも、確かに日本人には日本人固有のこころのあり方があるし、イタリア人にはイタリア人特有のこころのあり方がある。例えばイタリアを旅行した日本人がよく出くわすことに、ジプシーのお金請いがある。我々にはそれはまるで「不浄」なものを見てしまったような「不愉快」な気持ちにさせられる。だから決してお金をあげることはしない。それに対してイタリア人は,よくジプシーにお金をあげている。それが何故かといえば、ジプシーは社会的な「弱者」であり、彼らの立場は長い歴史の中で築き上げられたひとつの文化で今日明日にも簡単にその弱者という立場から抜け出す事ができないという事実を受け入れているためだ。
共同体のこころはその内部にいればなかなか見る事ができない。誰もが共有しているこころの状態であり,誰とも差がないために認識することがほとんど不可能だからだ。日本人には当たり前のこころのあり方が、西洋人にはとても奇異にうつったりするのはそのためだ。日本人には普通の「笑い」もしばしばイタリア人にどうして何が面白くて日本人はこんな事に笑うんだと、よく言われたりする。

フロムがドイツナチズムに関して書いた,自由からの逃走という本はまさにこのようなドイツ人の「共同体のこころ」のあり方であった。近代化して大きく変化したドイツ人社会の市民達が共有していたこころの状態が,あの狂気を生み出した。誰もが意識のレベルでは当たり前に希求していると思っていた「自由」が当時の人々にとっては大きな「負担」でありそこから逃れようとする社会的な力が働いていた。

自分には東京駅で起きた弱者を全く無視する「共同体のこころ」が、今回の障害者施設での凶暴で,無惨な殺戮を犯した「個人のこころ」と、全く無関係のものだと確信することは出来ない。

















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by kimiyasu-k | 2016-07-29 04:33 | Comments(0)