コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2017 03 11 権限と責任
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EPSON R-D1x NOKTON40mmF1.4

先日、決して小さくはない会社を経営する日本の方と、車で4時間程移動する機会があった。あまり饒舌なかたではないけれども長時間、狭い車に乗っていれば雑談やらちょと真面目な話しなどもすることになる。「イタリア人ってちっとも働かずに、無駄口ばかり叩いているというイメージがあるけれども、実際のところどうなのですか。」と聞かれる。「日本よりイタリアの方が遥かに生産性は高いと思います。」と答えると、「え、そんなことは無いでしょう。どうしてですか。」「いや単にネジを絞めるのが早いとか、そういう意味じゃあないんです。意思決定における、権限と責任の問題なんです。日本では、あらゆる局面で、一体誰に権限があるのかはっきりしないし、当然それに伴う責任の所在も明快じゃあない。すべての意思決定は、なんとなくその場の空気が決めていくから、とてつもなく時間がかかるし、時には意思決定ができないままに保留の状態が平気で続いていく。何も決まらない会議なんてのはその典型的な例です。」「確かに毎回毎回、同じことの繰り返しでちっとも前に進まない会議をうちの会社でも随分やっているという気がします。」会社でもなんでも同じだけれども、この決定-実行というプロセスにとてつもなく時間が掛かってしまうのが日本の会社、共同体のシステムだし、その結果、一体責任がどこにあるのかもはっきりしない。だから勢い、「連帯責任」それは言い換えれば、誰も責任を取らない、「無責任」という状況が生まれてしまう。そこで結局犠牲になるのは、長時間残業に追い込まれる社員=弱者、というこになる。時には自殺にも追い込まれてしまう。イタリアの会社では、社会では個人個人が各々の役割と責任分担をきちんとしているから、目的に達するまで一直線に進んでいくからとても効率が良いし、その結果生産性も高くなる。それに対して日本の会社は目的に達するまでに、紆余曲折が長すぎて、時間が掛かってしまい、全体でみれば生産性がとても低い、そういう意味での生産性なんです。
けれども、そんなイタリア的、おそらく西洋的なやり方が企業として必ずしも勝者になるわけではなく、誰かに権限を与えてしまうということは、その判断が間違えれば、企業は簡単に倒産へと追い込まれてしまう。IBMより進んでいたオリベッティが、このIT社会で姿を消してしまったのは、そんな例ではないでしょうか。
そんななんとも掴みどころのない日本式の意思決定だけれども、それでも私は3月11日には、6年前の今日、「権限」と「責任」が一体どこにあったのかを、日本社会は問いただす必要があると思う。とてつもない面積の国土を失い、6年経ってもまだ10万人以上の人々から財産を奪い取り家に帰れないという現実を作り出したごく一部の「人」が日本の社会にはまだ生息しており、何ら責任を取らないままに、まだあの事故以前の権限を行使し続けているのだから。










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by kimiyasu-k | 2017-03-11 15:00 | Comments(0)