コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2017 03 29 狂っている
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「高浜再稼働へ 非科学的な地裁決定が覆った。」
これは読売新聞の見出しだけれども,大きな違和感を感じてしまう。そもそも裁判と科学的というふたつの言葉がどこかミスマッチで、裁判所が科学的な判断をする場所ではないことは、あきらかだ。実際この社説は,「厳しい規制基準に基づき、十分な安全対策が施されている、との判断は極めて現実的だ。」と「現実性」を問題にしている。
原発は,つくるのに、運営するのに非常に高度な技術を要する。それは国の技術力の忰を集めたものであって、とても普通の人が「分かる」ものではない。だから所詮技術,科学に関しては「普通の人」である裁判官が「安全性」という観点から評価する事は,無理な話しだ。そもそも裁判官のできる事は「安全性」の判断ではなく、現行の法律に照らし合わせてみた際に,それが合法であるか違法であるかという事でしかない。この国が法治国家である以上は。ここには価値観が介入される余地はない。
そんな視点から一度事故を起こすととてつもない被害を一般の人に,地球規模で起こしてしまう原発のような「特殊な」案件の最終的な意思決定機関が本当に裁判所であって良いのかという疑問が起こる。こと安全性に関しては,例えそれば不完全な物であれ「原子力規制委員会」という組織が立派に存在している。だからもし市民が原発の安全性に疑問があるのなら、その評価をしている「原子力規制委員会」に直接,疑問を呈するのが順当だし原子力規制委員会は現在のような密室審査機関ではなく、そのような一般の人々へ開放されたものでなければならない。たとえそれが混乱を招いたり限りなく長い時間を要するものであってもそれが民主主義の理念なのだから。
良くも悪しくも、読売が「現実性」という言葉を使っているように、原発の問題は「安全性」や「経済性」、「環境」などといった個々の様々な側面からの単一的な評価だけでは、「稼働する」ということを決定してはいけない、他には全く類例のない特殊なものであるということをもう一度、再確認する必要がある。安全性や経済性といったどちらかと言えば定量的な評価に頼ることは、ある意味「簡単」な事だ。もちろんその定量化に当たってはかなり専門的な知識がいるし、また一体どこまでを「可」とするかに関しては様々な議論があるだろう。原発問題の本質は、定量化できない、数字として計る事のできない側面を持つ事だ。近代的な思考は、定量化に、科学的なことに絶対的な価値をおいてきて、それが余りに当たり前の意思決定の基準となってしまっている。もちろん近代以前に戻ろうと言っているわけではない。現代は科学的思考の「知の限界」がある事を知ったはずでは無かっただろうか。
今向き合わないといけない「現実」とは、いかなる「搾取」もない方法によってエネルギーをつくり出さなければならないという現実だ。その搾取とは、社会的な弱者からの、未来の世代からの、そして自然からの搾取だ。何度も繰り返すように、「原発」がこれらの搾取から成り立っている技術であることはフクシマの事故ですでに実証された事実だ。その原発を再び稼働させようという「日本の意思決定」は、「太平洋戦争開戦」の暴挙に等しい。もしこのような愚かな決定をさせないための手続きが必要なら、一日も早く、「原子力規制委員会」の上に、「倫理委員会」を創設するべきだ。倫理的な理論を議論をすれば、そこから引き出される結論は必ずや、原発に変わる新しい技術へと日本を向かわせるはずだから。
いとも簡単に高裁決定で原発再稼働にgoが掛かってしまう日本の意思決定の仕組みは、完全に狂っている。











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by kimiyasu-k | 2017-03-29 12:22 | Comments(0)