コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2017 06 02 カモミールの花束
を頂いた。
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第1条 天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は,主権の存する日本国民の総意に基づく。
第1条 イタリアは、労働に基づく,民主共和国である。主権は人民にあり憲法に規定する形式と制限の中でそれを行使する。
憲法改正とか言っているから、何か見えてこないかと、改めて我が人生に関係する両国の憲法をこうして並べて書いてみた。どちらも主権が国民にあるのは共通しているけれども、確かにイタリア人は、憲法の1条に「みなさん働きましょう。」って書いておかないと、みんな無駄話ばっかりしてちっとも仕事が進まない、という事なのだろうか。ということは、日本は「天皇は象徴です」といっておかないと、それ以外の何かになってしまうと言う事だろうか。(イタリア憲法の労働の話しはもちろん冗談です。ファシスト政府が戦後の共和国に変わる際の経緯から生まれた「労働」だと思います。)
よくよく読んでみると、何となく日本の憲法というのは、おかしい、というか、解りにくい。まず主語が、憲法の初めなのだから、「日本は」とくるのが自然のような気がするけれども、「天皇は」が主語になっているのは、やはり日本は「君主国」だからなのか。そしてそれが「日本国」の「象徴」というのも良くわからない。まず、「象徴」というのは西洋語ではシンボルだから「記号」、日本国を表す「記号」だというわけだ。そう言ってしまうと、例えば日の丸の国旗などは日本国の記号として、完璧に機能しているのだけれども、「天皇」がそのような単なる記号であるとは思えない。つまりシンボル、象徴を越えた何かを有しているというのは、おそらく誰もが思っていることだろう。
国家が単一の「権威」によって治められるのは危険性をはらむ、つまり独裁的に権力行使に突き進んでしまう可能性があるので、「天皇」と「政府」という二極の権威構造をもつのは、世界的に見てもよくできた国家構造だと思う。イタリアでも、教会と政府という、二つの「権威」が重なりあうようにして国家を運営している。それは精神世界と現実世界という全く異なった次元ではあるけれども。
こんな短い文章の中で、簡単に語れるような「天皇」でないことは知っているけれども、どうも憲法の1条に規定されている象徴天皇ということは、分かりにくいし、完全に納得のいくものではない。日本人のアイデンティティの中では、天皇は単なる隠喩的な記号つまり象徴を越えた存在であり、意識、無意識のレベルにおいて、精神的なよりどころのひとつ、であることは事実だと思う。
これまた訳のわからない自衛隊と憲法9条の関係ばかりが問題にされる改憲論だけれども、戦後も70年が経ったのだから、まずは始まりの、第一条を真っ正面から取り組まないと、とても9条にまでは達しない。























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by kimiyasu-k | 2017-06-03 00:52 | Comments(0)