コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2017 06 15 分離不安
遥か昔昭和の時代,薪で焚いた木のお風呂に父親と入ると,革の帯でひげ剃りを研いで上手に小指を刃の反対側に引っ掛けて髭を削いでいた父の姿が目に浮かんでくる,そんなひげ剃りの器具たちが飾られていたショーウィンドーに、ベラッジョで出くわした。

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EPSON R-D1x NOKTON40mmF1.4

ハフィントンポストという、リベラル系の世界中の国で読まれているウェブジャーナルがあり、その日本版が「だからひとりが好き」という特集を組んでいて連続的に記事が掲載されている。つまり、「集団に馴染めない人」問題を、集団になじめないことは決して悪い事じゃあない、という視点で見て行こうというものだ。その中で,いつかも書いた堀さんという精神科医の方が,ひとりでいられる事は,情緒的には成熟していることを意味していると書いている。ひとりでいられない事のほうが、むしろ母親からの分離がなされていない,分離不安という未熟な状態というわけだ。基本的に日本人は,そのような「分離不安」的な傾向が強く,集団への帰属感が個人の情緒的な安定性を保証する要因になっていると思う。
イタリア人はどうかと言えば確かに,集団への帰属感は,薄い。どこの大学を出ているとか,なんという会社に勤めているとか,ひいては自分がイタリア人であるとか、そんなことはほとんど話しにあがらないし,聞かれた事もない。別に良い学校を出ていても、大きな会社に勤めていてもそんなことには余り興味を持たない。
じゃあ、イタリア人はひとりが好きかと言えば,決してそんな事もなく、結構「ツレション」も好きで,「あなたがするなら私も一緒につきあう」という場面にもよく出くわすし,家族のあいだでの繋がりは、日本人と比べて百倍も強いように思う。
日本人にとっては欧米人という言葉で何となく「個人主義」というレッテルを貼ってひとまとめに見えてしまうけれどもアジア人が千差万別なようにヨーロッパ人も国によって随分国民性は異なっている。他国人は全く分からないけれどもイタリア人は少なくとも個人として集団から分離しているからこそ、それによって「危険にさらされる」個人個人の繋がりを大事にする、だから個人個人の繋がりがより重要性を帯びてくるような気がする。そのような個人の繋がりが、相対的に,結果として集団という社会関係を再び生みだす。だからイタリアの集団というのは日本のような個人が帰属するアプリオリな絶対的な集団ではなく,自由な個人の網の目のような関係性でできた集団という事になる。スポーツの事はあまり分からないけれども,それはおそらく野球とサッカーの違いにも通じるのではないかと思う。
日本人からみれば、自分勝手で時には子供っぽいと映るイタリア人だけれども、それは大前提として何もしなくても自分のアイデンティティを保証してくれる帰属集団をもたない個人が,自分の知性,感情,手足を使って他人との関係性を築こうという姿であり、日本人には考えられないほど、イタリア人は「他人の感情」に対して敏感である。
ひとりでいられる能力を獲得した後の更に向こう側には,全く別の「ひとりでいたい」事と相反しない「集団」の姿があり、それがイタリア人社会の「心地よさ」であり「難しさ」でもある。

























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by kimiyasu-k | 2017-06-13 12:39 | Comments(0)