コモ湖畔の書斎から dalla finestra lariana

2015 07 12 PALLADIO TEATRO OLIMPICO オリンピックシアター
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EPSON R-D1xNOKTON40mmF1.4
BRAMANTEブラマンテがローマのサンタマリアデッラパーチェの中庭を作ったのが1500年から1504年にかけてで、この時点でルネッサンスは,古典言語,つまりローマ時代の建築様式を完全に復元したという事ができる。
その後,完成した建築言語は、マニエリスムという、一度完成したものを壊す作業へと入って行く。その最も典型的な例は,マントバにあるパラッツォ-テ,ジュリオロマーノが設計したもので、正統な建築言語の文法を異様なプロポーションや破綻によって、人々を仰天させる建築様式へと移って行く。それは1530年ごろの事だ。
そしてその100年後、1630年ごろにボッロミーニはローマのサンラルロアッラクゥアットロフォンターナで、マニエリスムによって一旦壊された建築様式をバロック様式へと再び統合していく。
このような、建築様式、芸術様式の変遷,移り変わりは,美術史,ウィーン学派の中で,KUNST VOLLEN、芸術意欲という概念で説明されそれはあたかも芸術作品が時間経過とともにある意思を持つかのように,変容していくもので、あらゆる芸術的表現の移り変わりを理解するのに非常に有効な概念であることは歴史が証明している。
1430年のブルネレスキー、フィレンツェのサンタマリアデルフィオーレのクーポラからはじまり1630年のボッロミーニのバロックまでの200年間をひとつのルネサンス建築のくくりとして考えると,どうにも1580年のこのパッラディオのテアトロオリンピコやラロトンダなどの建築表現は納まりが悪いのだ。つまり、パラディオに先立つ事すでに50年前には,ローマを目指した古典建築の言語はすでに完全に復活し,それを壊すマニエリスムの時代だったからだ。パッラディオの建築はブラマンテの古典言語のぶり返し、焼き直しであるかのように厳格なローマ建築を目指している。そのわずか50年後にはバロックという、ルネサンス建築の枠をあきらかに越境してしまった建築様式が生まれているのだ。どうして今更,つまり1580年の段階で,パッラディオは再びローマ建築をめざさなければならなかったのか。どうしてその後,パッラディオ建築はパッラディオ様式と言って良い程、様式として確立してそれが世界中,おそらくネオ古典様式の原典となっていくのか、それが疑問でならなかった,こうしてパッラディオの建築を目の前に見るまでは。
確かに1500年,ブラマンテによってローマ時代の建築言語は,完全に解読可能になった。サンタマリアデッラパーチェの中庭に入れば,その均整のとれた完璧といっても良い空間には誰もが納得する。何処にも間違いは無い。正統なローマ建築言語の空間が実現している。そこには完璧さゆえの静謐感が漂っている。
一方,パッラディオの建築に対峙した時感じられるのはローマ建築のもつ「尊大さ」だ。それはまさに世界征服を果たしたローマ帝国のアイデンティティそのものと言える。 ローマ時代の建築言語,それは実際のところギリシャに起源をもつ建築言語だけれども、その言語を理解したブラマンテから実に80年たってようやくパッラディオはローマ建築の心髄、核心である、帝国の持っていた「権威」を建築に表現する事に成功したと言える。
それは、ひとえに彼のつくる建築のもつ純粋に芸術的な「塑像性」によるところのもので,そこには素材や色彩,機能などと言った実体的な,物理的な表現効果は全く関与していない。
その後,パッラディオの建築が,まるでひとつの規範となって世界中の権力者たちによって20世紀に至るまで採用されるのは、このパッラディオの建築がこのローマ帝国がもっていた超越的な,絶対的な,権威を表現するものだったからだ。
このような権威主義的な建築が一体,彼自身のもつ人間性によるものなのか,時代の要請だったのかそれとも単なる偶然の産物だったのか、それは疑問符として残されている。
人文主義,のブルネレスキーからはじまったルネサンス建築は,180年を経てパッラディオの権威主義で幕を閉じると思えば,そのわずか50年後には,その対極にあるバロック様式がボロミーニによって完成されその後,北ヨーロッパへ、全世界へと普及して行くことも納得できる。
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by kimiyasu-k | 2015-07-13 00:32